出来損ないの欠陥人間は何も成し遂げられない人生といかに向き合うべきか自問自答する!《発達障害》

出来損ない人間がアイデンティティーを保つ方法 考えかた

自分でいうのもなんだが、私は自分を出来損ないだと思っている。
発達障害
なんて能力値だけで判断すれば欠陥としか言いようがないわけで、

恥ずかしながら私は生まれて今このときまで、何かを成し遂げたという経験がない。

というか、そもそも「成し遂げた」というのは何をもって判断するのだろう?

例えば、溜め込んでいた洗濯物を休日にまとめて洗濯すれば、私は洗濯を成し遂げたわけであり、私はそれで、ほんのちょっとの達成感を味わうことになるだろう。

しかし、そこで「やったぞ!私は洗濯を成し遂げたんだ!!」と達成感を握りしめた拳を、高らかに掲げることはない。

「洗濯なんて誰にでもできることやって、成し遂げたとかうけるw」と小馬鹿にする人もいるだろう。

じゃあなんだ?「成し遂げる」という行為には基準が定められいるのだ?

そもそも、その基準は相対的であるのか、それとも絶対的であるのかもわからん。

「自分の中で決めた目標を到達すること」であるなら、自分自身という絶対的な判断基準といえるが、けれど人間とはどう足掻いても他人と比較する生き物ではないだろうか?

「あの人はあんな高い目標があるけど、他人なんて気にせずに自分の中に目標を設定しよう」と言っておきながら、すでに他人の事を気にしてるんじゃないか?

自分の価値観で決めているようでいて、実際は世間一般という大きな手のひらの上で転がされているのではないか?

本当に絶対的な個人的判断基準なんてものは存在するのか怪しいものだ。

逆に、達成の判断基準が世間一般が決める相対的な基準だとするとどうだろう?

100人の審査員がいて8割以上が「あなたは凄い!」と認めてくれれば、それは偉業達成となり、偉業を達成することによって、その人は「成し遂げた」ことになるのだろうか?

だとしたら、私のような発達障害を持つ人間は、基本スペックが普通の人よりも劣っている人間には、下手したら何かを成し遂げる、なんてことは不可能なんじゃないか?

人道的な視点を排除して「できる」か「できない」だけで人の価値を決めるとすれば、発達障害をもつ人間は圧倒的に「できない」人間である。

別に発達障害の人を貶めたいわけでもない、私自身だってそうなのだから、誰が好き好んで自分をけなすものか。

しかし、非常に残念なことながら、普通の人と発達障害をもつ人間の性能には大きな差があるのも事実だ。

用意ドンで普通の人と競争すれば確実に負けるような欠陥がある。

「誰にだっていいところはあるよ!」とか「大切なのは心だよ!」みたいな、薄っぺらいオブラートに包んだところで、覆すことができない事実なのだ。

そしてそれは、当事者である私たち自分自身が一番よくわかっていることなのである。

「人は生まれながらにして自由かつ平等の権利を有する」という言葉ば誰だのもったか、まあ誰が言ったかはどうもでいいことで、実際問題、人間は生まれついた時点で個体値が決まってしまう。

ゲームでキャラメイクをしたとき、基本値成長性などが割り振れるが、現実もそれと同じである。

それがわからない普通の人たちは、 障害ですら”努力”なんて言葉で片付けようとする。

彼らは努力すればステータスが伸びるのが当たり前だと思っているのだ。

しかし、私たちのように発達障害をもつ人間からしてみれば、それがどれだけ恵まれていることなのか、彼らには理解することはできないだろう。

普通の人が10の努力によって、10の成果を得たとして、私たちは10の努力をして一体どれほどの成果を手にすることができるだろう。

障害のない人の努力と障害をもつ人の努力を一緒にするのはやめてくれと言いたい。

発達障害者にとって努力とは”成果のでない苦行”と言ってもいい。

あなたは、私と同じように、これまでの人生で嫌というほど痛感させられてきたはずだ。

もしも「何かを成し遂げる」というのが、世間一般による相対的な判断の元に基準が決められているとするならば、それは私たちのような出来損ないには絶望的としか言いようがない。

絶望した!世の中に絶望した!みたいな。

いやまて、そもそも何かを成し遂げなければいけないという決まりもない。

身の丈に合った人生というものがある。

毎日を精一杯生きているだけで十分だ。

人間生きてさえいれば丸儲けだ!

これはあながち間違ってもいないと思うのだ。

この考えてもいいような気がする。

しかし、しかしだ!

そう考えると、なんだかものすごい無気力感に襲われるのは私だけだろうか?

いや、無理をするのがいい事だとは思ってない、できることを無理してやっても辛いだけだ。

しかし、逆に無理して何かしなくてもいいと思うと、なんかもう自分の存在意義がユラユラしてしまう。

自分のアイデンティティーを保ってられなくなりそうなのだ。

無理はしたくない、けど何もせずにのうのうと生きていたくもない、けど何をやっても結果には繋がらない、けど、いやしかし……

お判りいただけるだろうか?

  1. 欠陥人間であるがゆえに、一定上の成果ををあげることはできない。
  2. 一定上の成果をあげなければ世間から「成し遂げた」という評価生えられない。
  3. それじゃあ自分の中でハードルを下げた基準を儲けようと思ったけど、やっぱりそれじゃあ満足できない。
  4. けどいくら頑張ってもやはり能力的な欠陥により世間的な成果は得られない。
  5. うーん吐きそう。

ということである。

スポンサーリンク

出来損ない人間が歩むべき道とはなんぞ?

つまり、つまりだ。

私たちのような出来損ないの欠陥人間は、成果を求めてはいけないことが正解なのではないだろうか?

それでいて、苦しみながら何かをやり続けなければならないのだ。

世間に認められる成果は得られない、しかし自分の中にある低いハードルでは満足できない。

じゃあ私たちにできるのは、

誰にも認められず、なんの成果を得られないまま、苦しい道を歩き続けること

これだ!これしかない!?

「苦しみ」こそが私たちのアイデンティティーなんじゃね!?

いやぁ、被虐趣味でもあるのかこいつは、とんだドMだと言いたくなる回答を導き出してしまった!!

まるで修行僧だ。

いやだなぁこんな人生。
なんでこんなふうに生まれちまったのかなぁ。
もっと普通に産んでほしかったなぁ。

でもどうやら、私たちが自分のアイデンティティーを保ちながら生きていくには他に道はないっぽい。

おかしなことに、自分でも無茶苦茶なことを言っているのはわかっているのに、それでもあながち的外れだという気はしてない。

今まで発達障害について精神科でカウンセラーに相談したり、その手の本を読み漁ったこともあった。

そこで言われた(書いてあった)回答で満足していたときもあった。

しかし、結局はそんなものおべんちゃらである。

間違ってはいないけど、「苦しみ」を切り離そうとすると物足りなくなるのだ。

どう足掻いたところで、出来損ないが自分らしく生きようとすれば、苦しみからは逃れられないのだ。

だって出来損ないなんだから。

普通じゃないんだから。

幸か不幸かでいえば、圧倒的に不幸。

正常か異常かでいば、間違いなく異常。

それが出来損ない人間の現実であり、自分らしさと苦しみは切っても切り離せないのだ。

その苦しみと向き合い続けることでしか、私たちは自分を保つことはできないのじゃなかろうか?

まじ人生とは苦行、目指せ悟りの境地である。

コメント