「もう嫌だ、もう疲れた、何もかも全部どうでもいい」この無気力感に抗う方法

もうなにもかもどうでもいいという気持ちの対処方法 考えかた

なにもかもがどうでもよくなるという経験をしたことがあるだろうか?

今までやってきたことも、これからやろうとしていたことも、全部がどうでもよくなって、もうどうにでもなってしまえと放り投げたくなるのだ。

こうなってしまったとき、あなたを助けられる存在とはなんなのか、という話である。

誰かに助けてもらうというのには限界がある、だって結局は他人なのだから、あなたの人生を最後まで見守ってくれるわけではない。

あなたが一人で全てを投げ出してしまおうとしているとき、そんなあなたを見つめている存在というのは唯一人だけ。

それはあなた自身である。

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自分に認められる自分

世間体とか見栄というのが原動力になることもあるが、それって結局は他人に左右されてしまうもので「もう他人の目なんてどうでもいいや」と思ったとたんに、やる気なんてなくなってしまう。

所詮は他人である。
いつか居なくなるかもしれない存在だ。普遍ではない。あてにならんのだ。

そこにきて、自分自身は普遍の存在である。

とりあえずあなたが生き続けている限り、あなたの行動は常に自分自身に見られている。

もしもあなたが途中でやる気を無くしてふて寝していても、他人になら「私は常に頑張り続けていました」と言える。

他人は常にあなたを見続けてきたわけではないのだから、他人にならいくらでも嘘をつくことができる。

しかし、あなた自身はどうだろう?

あなたは自分自身に「私はできることは全部やってきました」と言えるだろうか?

言えないはずだ。

なぜなら、それが嘘であることはあなた自身が一番わかっているからだ。

であるならば、私たちが認められるべきは「他人」ではなく「自分」であるべきだ。

いくら他人に認められようが、あなた自身がそれをよしとしていなければ意味がない。

逆に言えば、他人に認められなかったとしても、あなた自身が頑張ってきたことを認めてくれるのであれば、それで十分なのではないだろうか?

何もかもがどうでもよくなってしまうなら、あなたは自分を見ている自分を意識することだ。

あなた自身が「本当にそれでいいのか?」と問いかけてくるだろう。

自分に嘘はつけない。
あなたがどれだけ言い訳しても、自分にはそれが言い訳であるとバレてしまう。

そこで「もういい」と言えるのならそれでいい。

しかし「いやだ」と思ったのなら、あなたはまだ全てを投げ出すには早いのだろう。

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人間だけが自分の中に自分を持っている

人間というのはおかしな生き物だと思う。

ほかの生き物は「自分はなんのために生まれてきたんだろう」とか「自分は何を成せばいいんだろう」なんて考えてはいない。

ただ本能に従って生きている。

「私はなぜ走るのだろう」と悩む馬はいない。

馬は誰に言われることなく本能に従って走るだろう。
馬は走るものだと決まっているのだ。

しかし人間は違う、人間は何をするか決まっていない生き物だ。

走れない馬は淘汰されるが、人間はひとつのことができなくても、ほかの選択肢がいくつもある。

何をやってもいいし、何もやらなくてもいい。
全て自分次第である。

つまり人間は定められた本能ではなく、己の中に宿った理性に従って生きているのだ。

理性とは自分自身であり、理性が多くの可能性を与えてくれる。

けれどそのせいで生きるのが苦しくなるときもある。

本能だけで生きていけるなら、悩まずに済んだのかもしれないが、猿に戻りたくはない!

しょうがないので、私たちは理性と折り合いをつけながら生きていかなければならないのだろう。

理性めんどくさぁ……

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