「喜んだふり・悲しいふり」空気を読まない人は生きづらい演技を強制する社会

空気を読んで「悲しいふり、嬉しいふり」を強制する社会 人間関係

私が人間嫌いである理由の一つに「演技を強要される」といものがある。

いわゆる「空気を読んで」というやつだ。

もちろん、素の感情だけで振舞っていたら、人間関係の構築などできないので、そこはある程度必要なものだと理解ができる。

仕事でお客相手には笑顔で対応したり、職場では愛想よく振舞ったり。

本当は内心反吐が出そうになりながらも、ビジネスだからと堪えることができる。

(あまりにモンスターな相手だとそうもいかなくなるが…)

しかし、仕事相手ならともかく、私生活においても、人から演義することを強要される。

  • 嫌いな人の葬式でも悲しんでるふりをしなければロクでもない人間だと言われる。
  • 嬉しくもないプレゼントをもらっても喜んだふりをしなければ酷い奴だと言われる。
  • 興味のない人でも病気になったら心配しているふりをしなければ冷たい人間だと言われる。

逆に言えば、内心ではどう思っていいようが、演義さえできれば、その人は周囲から「良い人」と認識される。

どんな人間かを判断するのに、内面や本質は考慮されない。

重要なのは「そう見えること」なのである。

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人間社会は演義で成り立っている

人間社会には行動の規範が設定されている。

もちろん法律ではないから、それに従わなくても法で裁かれることはない。

それならばと、何も気にせず自分の思うがままに振舞えばどうなるだろうか。

人格に難ありと評価され、周囲から迫害されるだろう。

ときには精神的な嫌がらせ、ときには暴力を伴った攻撃。

法による罰ではなく、人が感情によって人を裁こうとするのだ。

つまり、空気を読めない人間は社会的にリンチされるのである。

空気が読めない人への攻撃

私にとって、人と一緒にいるというのは苦痛である。

なぜなら、他人は嘘をつくことを私に強要するからだ。

嫌いなものを好きだと言わされる。

悲しくないことを悲しいと言わされる。

私は嘘をつくのが嫌いなのだ。
心にもないことを言ったり振舞うことの苦痛といったらない。

だから嫌いなものは嫌いと言うし、興味がないものには興味がない言う。

その結果、多くの人は私のことを「冷酷だ!」「冷徹だ!」「人間じゃねえ!」と言うだろうが、私にしてみれば「冷酷なのはお前らの方だ!」である。

考えてみほてしい。どんなに真面目に頑張って生きていたとしても、親の葬式で悲しめなければクズ扱いである。

その人が今までどんな人生を歩んできたのか、どうしてそう思うのか、そんなことは一切関係ない。

その人の感情を無視して、ただ規範となる行動から外れた人は迫害される。

空気を読めないやつはどれだけ精一杯生きていても認められない人間社会。

それを是とする人々のほうが、私なんかよりよっぽど冷酷ではないだろうか?

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ワガママ人間ばかりの社会

そんなわけで、日々苦痛を味わいながらも、私は演技をしながら生き延びているわけである。

私はなんて健気なんだろう!

しかし、そこにきて、またもや冷酷人間達は私をいじめてくるのである。

ちょろっと演技するのをやめて本心を見せてしまうと「そんな人だとは思わなかった!」と、私のことを嘘つき呼ばわりしてくるのだ。

マジがっでむ!である。

言い掛かりも甚だしい。

別に私は好きで演技をしていたわけではない。
社会で生き延びるために演技することを強制されていたにすぎない。

最初から本心だけで生きていけるならそうしている。
でもそうしたら、私は迫害されるだろう?
それはで生きていけないのだ。

強要されて苦痛を我慢しながら演技をしていたというのに、いざ本心を知ったときに失望するなんて、それこそ自分勝手も甚だしい。

演義を強要したのはお前らのほうじゃないか。何をいまさらである。

全くワガママな人間どもめ!

演技しなくてもいい自分になる?

「演技が嫌なら、そのねじ曲がった性根を変えろ!」という意見も出てくると思うので一応言っておくと。

いや、それは無理だわ。

うん、無理。

むーりー、むーりー、むーりーだーよーーー

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というような社会の姿について、最近読んだ社会学の本に書かれていたのである↓

いやぁ、こうゆう本を読むと色々考えさせられるなぁ

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