「親や教師に理解されない…」子供を否定するのはやめてくれ!

もしもなんて考えても何も変わらない 考えかた

皆さんはドラえもんには「もしもボックス」という道具があるのはご存知だろうか?

受話器に向かって「もしも◯◯だったら」といえば、IFの世界を作れてしまうとんでもアイテムだ。

人生で「もしも」の話をしたところで無意味な話だというのは分かっているが、発達障害などで子供時代から苦しい思いをしてきた人は「もしも」を想像せずにはいられないはずだ。

「もっと子供を理解してくれる親だったら」

「自分を正しい方向へ導いてくれる先生がいてくれたら」

こう考えてしまったことは一度はあるだろう。

「なんでもかんでも親や教師の性にするな!」という声も聞こえてきそうだが、それでもだ。

子供にとって、自分を導いてくれる存在というのは、その後の人生すら左右する重要な存在である、ということを私は声を大にして言いたい。

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親に完璧を求めるのも違う

 

親であるから子供への完璧な教育を求めるのはおかしいというのも確かだ。

親になるための免許を取得して子供を産むわけではないのだから、子供をどうやって育てるか、親は手探りしながら答えを見つけなくてならない。

親もまた未完成な人間である

であるから、子供と共に成長しなければいけない。

親もまた、良い親になるための指導者が必要な立場にあるという点では、子供と一緒なのだ。

けど否定されて育った子供は災難だ

親に完璧を求めるのは難しいと分かっていても、親の育て方が子供の人格形成に大きな影響を与えるのは事実である。

親に抑圧されながら健やかに育った子供なんて私は聞いたことがない。

もちろん、子供が間違いを犯したときにはそれを正す必要がある。
躾のために叱ることも必要になるだろう。

しかし、子供の「適性」を理解せずに、平均から外れた行動や感性を何も考えずに叱るといった、型にはめた教育はやめてほしい。

できないことを強いられてきた子供は歪む、間違いなく歪む。

親に必要なのは子供と対話すること

最初に書いた通り、親も正しい教育方法なんて分からない、自分の子供が他の子供と違うかもしれないなんて思いもしないものだろう。

それじゃあどうすればいいかといえば、対話し続けることではなかろうか。

親も正しいやり方が分からないのであれば、できることは対話だろう。
子供と話し、子供に何が必要なのかを考える。

理解できなくても対話の姿勢はもってほしい。

具体的にどうすかは無理して親が考えずとも、外部機関を頼ればいいわけで。

いや、もう、とりあえず理解できないものを否定するのをやめてくれればいい。

私の場合は、むしろそれだけでよかったのだが、それが叶わなかったからこんなことを書いているわけだ。

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学校の教師に期待してもしょうがない

教師にこそ多くを求めるのは的外れだと私は思う。

 

学校でいうところの「教育」とは、授業のカリキュラムをこなすことである。

それも一人クラスに多ければ何十人という数の生徒がいるわけで、担当教師が一人一人の適性を理解して個別の指導なんてのは、そもそも無理なのだ。

だいたい、教師は心理カウンセラーの資格を持っているわけでもないし、教員免許は人格の証明にはならない。

良い教師もいれば、悪い教師も同じだけいる。

良い教師に当たるかは運次第

会社で配属先の上司が良い人か嫌な人か、というのと同じである。

たまたま配置されたクラスで、たまたま担当になった教師なわけで、良い人に当たるかどうかは運次第。

性格の悪い教師に当たれば最悪である。

教師といってもただの人間であるから、気に入った生徒は贔屓するし、気に入らない生徒には厳しくする。

教師が悪いというわけではなく、人間てそういうものだから、教師にそこまで求めてしょうがないということなのだ。

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結論:理解ある指導者なんて幻想

ここまで書いてみて「自分のことを理解して正しい方向に導いてくれる指導者」というのがいかに現実味のない存在なのか実感してしまった。

私たちにできるのは、理想的な指導者を求めるのではなく、多くの考え方に触れ、見識を広げ、自分に必要だと思われるメソッドを取捨選択し、自分で自分の道を作るだけである。

ありもしない救いを求めるよりも、自分の手で掴み取れということだろう。

しかし、完璧な指導者なんていなくていいから、せめて自分を否定する親や教師さえいなかったらとは思ってしまう。

それだけは残念で仕方がない。

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