パーソナリティ障害だけど人間関係を捨てたら精神的に楽になった

人生に疲れた パーソナリティ障害

以前の記事でパーソナリティ障害のうち、自己愛性人格障害とはどいういうものなのかを書いてみたが、パーソナリティ障害というものがイマイチ分からないという人もいると思うので、今回は私自身の行動原理を元に詳しく説明したいと思う。

ただし、パーソナリティ障害といっても、人によって症状は異なるので、これはあくまでも「私の取り扱い説明書」であることを理解して読んでほしい。

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問題が起こるときの原因はほとんど人間関係である

まず私には理解できないことだが(だからこそ人格障害なのだろうが)

一般的な人間は、一人でいることが辛いらしい。
みんなと同じ事をしていないと不安になるのだという。

みんなと同じ格好をして、みんなと同じように仕事をして、価値観の同じ人間が集まって遊んだりするのが良いらしいのだ。

う〜む、想像するだけで頭が痛くなってくる。

そんな私が人付き合いが上手なわけがないのは、お察しできると思うが、具体的にどんな問題が起こるのか説明しよう。

人付き合いは限定的

よく仕事を辞めた後でも繋がりを持とうと連絡してくる人がいるが、仕事上の付き合いというのは私にとってはあくまでも限定的な付き合いでしかないのだ。

ごくごく稀に妙に気の合う人がいたりすると話は別だが、私のなかでは基本的に「会社を辞めて契約が切れる=人間関係が切れる」ということなのだ。

不要な人間関係は捨てたくなる衝動

自己愛性人格障害者は必要のない人間は捨てたくなる衝動にかられるのだ。
感覚的には「髪が伸びすぎて鬱陶しくなったからバッサリ切ろう」ぐらいなものである。
これはもはや本能といっていいだろう。

近すぎる距離感はNG!少し離れた友人関係は長続きする

基本的に友人関係の長続きしない私だが、例外もある。
お互いのやることに口出しせず、たまに会って酒を飲むぐらいの距離感の人とは意外と付き合いが長くなるのだ。
「べったり依存するわけでもなく、完全に切れるわけでもなく、酒などの趣味的な点でそれとなく繋がっている相手」にはストレスを感じない。

距離が近いと相手に自分のことで口出しされるようになるから鬱陶しくなるし、逆に距離の近い相手が自分の意に反することをするとイラっとするからよろしくない。

距離が離れすぎると「もう会うこともないだろうか切り捨てで」という発想になる。

人付き合いはそこそこ距離感がいいのだ。
適切な人間距離をとって安全運転を心がけるのが対人事故を防ぐコツである。

根拠はないのに自分が特別だと思ってる

なぜ? と聞かれれば「そういうものだから」とか答えようがない。
私は仕事で山ほど失敗してきた、人間関係も上手くいかないことだらけである。
だから自分に自信がない、なんで私はこんなにダメなんだぁ……

などと思ってるクセに「だけど自分ならなんとかなるんじゃないかなぁ」という謎の自信が常に存在している

自分で言っていて、実に不思議である。
なにをどうしたら、そう思えるのか自分でも説明することができない(笑)
これは、たぶん考えてもわからんことなのだろう。

これぞ人格障害者の特技「根拠のない万能感」である。

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パーソナリティ障害の症状やタイプも様々である

ひとえに人格障害といっても、私のように自分中心でしかものが考えられないタイプとは逆に、行動を他人に委ねてしまう依存性人格障害というタイプもある。

私も基本的には他人に興味がないのだが、他人に近づきすぎると相手に固執しすぎてしまう場合がある。

こうなると、対象が自分の意図通りに動かないと怒りを覚えるため精神的によろしくない。

まあ人格障害が他人に近づきすぎても良いことなんて無いのである。

私たちは自分という存在は一般人にとっては危険物なのだという自覚はちゃんと持たねばならい。
「敵を知り己を知れば百戦殆うからず」というが、敵は人なのかそれとも己自信なのか、この場合は己を知ることが敵を知るということになるのか、そもそも他人に対する配慮のなさが問題なのか、人を知ることが必要なのか? 人とはなんぞや?
みたいなかんじだろうか、う〜む哲学である。

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孤独は良き隣人である

ソフトな言い方をすると内向的な人間である私は、常に自分の心と向き合い続け時には他者に苦しめられている。

そんな私を『他人』という”ストレッサー”から守ってくれる存在が『孤独』なのである。
私は孤独によって心を守られているのだ。

一般的な人が他人と関わることに幸福を感じて、他人と比較することで己の幸福度合いを測ろうとしているなかで、自分だけを見つめ続けている。

常に己と向き合い自分で納得のできる行為をするしかないのだ。

他人が干渉する余地などなく、当然助けてくれる者もいなければ、他人に助けを求める行為は私にとって愚かな選択である。

人付き合いは最低限でよいのだ

世間では「みんなで楽しく過ごすのが正解」という風潮が蔓延しているが、無理してそれに付き合う必要なんてないのだ。

世間一般の普通を演じようとしても、私たちにとって良いことなどない。
他人と関わることがストレスの原因なのに、わざわざストレスフルな魔境に飛び込むなんておかしいではないか。

「みんな」とか「普通」とか、それは私たちには当てはまらない事だと認めれば楽なのである。

ペンギンはペンギらしい生き方の中で楽しみをみつければいい。
無理して鳩の群れに混じってもつまらないだけなのは明白だ。

自分を信じられなくなったときに私は絶望を感じる

私が絶望を感じるとしたら自分を諦めたときだろう。

自分を幸せにするのも自分なら、自分を不幸にするのも自分なのである。
いつも「他人に自分の幸福を決められてたまるか」と、のたまっている私だが、過去に「自分にできることなんてもう何も無いのでは?」と疑ってしまったことがある。

いかに根拠の無い万能感という特技をもっている私とて、やはり失敗が連続すればダウンしてしまうこともある。
このとき私の精神は酷く不安定になり、何もやる気がしなくなった。

しかし、都合のいい時だけ他人に頼ったとしても、誰も助けてはくれないし、仮に助言をくれたとしても、それは役に立たない。

他人の言葉に意味はなく、自分を奮い立たせられる存在も自分だけなのである。
そのために私は自分を信じるために何度も自分を分析した。

自分にできること、自分にできないこと、選択の期待値、朝起きてから寝るまで常に考え続けるのは非常に疲れるし精神的にも参ってしまう。

しかし何かを見つけるまでひたすらに自分の可能性を探り続けなければいけない。

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まとめ:私はこの厄介はパーソナリティ障害を抱えて孤独に歩き続ける所存です

「この性格を直したい」「こんな自分を変えたい」「他の人たちのようになりたい」
そんな考えはとうに捨ててしまった。

他人に自分を合わせようとするのも、他人を自分に合わせようとするのも、どちらも歪なことだと気づいたからだ。

自分自身を理解すること。自分を律して自分の道を導き歩かせるのが正しい姿だ。
人格障害おおいに結構である。

強がりにしか聞こえないだろうが、半端な位置で周囲と馴染んでいるフリをするより、よっぽど潔く自信を持って前に進めるというものだ。

私に許されているのは孤独に自分を信じ続けることだけなのだ。

まったくもって孤独最高である。

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